35.旧豊科座     安曇野市(昭和初期の建築)
笑顔咲いた娯楽の拠点

 安曇野市豊科総合支所近くにユニークな構えの雑居ビルがある。建物正面に見える薄れた文字が物語るように娯楽拠点だった場所で、戦前、戦中、戦後と劇場 や映画館として親しまれた。現在は小さなアーケードのような雰囲気で、内部通路の左右に飲み屋が数軒並んでいる。
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 「豊科座」は、地元の井上興業部代表、井上★(王へんに連)一さんが地域の娯楽拠点として建てた。歌舞伎も上演した舞台には回転の仕掛けや花道もあっ た。収容人員は200人以上。観客は履物を脱いで入り、1階の桝席か2階の傾斜した畳敷きの空間で、冬は貸し出される火鉢を脇に暖をとりつつ観劇した。
 息子で2代目の公之さん(90)=同市豊科=は昭和16年、ゆくゆくは後継者になるために家業に入った。「いろいろなことがあった」と振り返る。運営に 夢もあったが18年に徴兵されニューギニアで負傷。死線をさまよい翌年帰還した後も療養は続き、国内情勢も悪化していった。
 ちょうどその頃、隣町から地元高校用にと建物の寄付を求められた。★(王へんに連)一さんと話し合い協力を決めると、劇場から一切の手を引いた。結局 「豊科座」は高校用にはならず、戦後取得した人が「豊科劇場」と改称。映画が劣勢に転じる40年頃まで映画館を続け、その後内部を区切って貸し出し始めた という。
 劇場にまつわる逸話の中でも特に印象深いものを公之さんに尋ねると、徴兵される前に起きた、当時国民的人気を博した夫婦漫才「ミスワカナ・玉松一郎」公 演でのひと騒動を語ってくれた。その日、ミスワカナは草履のまま建物に入って来た。従業員が脱ぐように求めたがミスワカナは出演辞退をちらつかせて拒否。 ★(王へんに連)一さんはその態度に激怒し、公之さんらに切符代を返して観客を帰せと指示した。ミスワカナの同行人が謝り、予定通り公演は行われたが、治 まらない従業員数人は、帰路で2人を拾カ堰につき落とすと息巻いた。それを、機転を利かせて公之さんが収拾させた。騒動以降、★(王へんに連)一さんが県 内の同業者に呼び掛け、2人の公演は二度と県内では行われなかったという。
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 劇場や映画館の時代を知る人は少なくなっていくが、近くに住む元豊科町長の笠原貞行さん(86)は12年、豊科座時代にあった南安曇郡明盛村出身で国民 主権論を大胆に主張した国会議員、植原悦二郎の演説会を鮮明に記憶している。「サーベルを下げた巡査がいて『弁士、発言停止』と翼賛政治批判発言を制止し た。怖かった」と話す。同市堀金烏川の小林修司さん(84)は23年、24歳で映写助手として豊科劇場に入り40歳頃まで働いた。「映写室はコンクリート 部屋で映写機から火が出ても延焼しない構造だった。仕事の後に近所に飲みに行くのが若い頃の楽しみだった」と話していた。

 劇場よもやま話 歌舞伎俳優の中村翫右衛門率いた前進座は昭和 18、19年、戦火を逃れて拠点を東京から豊科座に移動。そのため21年には豊科劇場で地域へのお礼興業が盛大に行われた。戦後、豊科劇場を拠点にした地 元の文化協会劇団は人気、実力とも県内屈指で、30年合併の新豊科町の時田季実初代町長は劇団の人気役者でもあった。